組踊「忠臣蔵」の作者でヤマト旅をお供した上地太郎

公開日 2015年02月16日

時代・人物・功績

1559年(嘉靖38)年頃、伊江王子朝義が伊江島の按司総地頭に任ぜられ、伊江御殿の始祖となる。1792年(享保14)には伊江朝叙親方(三司官)も伊江島の総地頭になり、伊江殿内(後の川平殿内)の始祖となった。
以来、琉球処分(1879年)まで、両総地頭家と伊江島の関係は続いた。その間、伊江御殿・川平殿内の両家で、奉公していた伊江島の若者の中で優秀な者は、伊江按司や川平親方らがヤマト旅の際にお供の一人として随行を許可された。
彼らは旅の道中で見聞した地域や江戸の文化を吸収して持ち帰り、伊江島の教育・文化の振興に大きく功績を遺している。

奉公の一人に、屋号ウィチウシャアガリの上地太郎先生がおられた。姓は東江で童名はウシャと呼ばれていたと思われる。上地は住まいの地名で、太郎は江戸上りのみやげにつけた名だろうと言われている。

先生は1806年(文化三)年頃、東江村で出生したと推定されている。

34歳の頃(1840年)に西江村の安田某の協力を得て、歌舞伎・仮名手本忠臣蔵を翻案して、場の設定や登場人物、琉球古典音楽などを取り入れ、組踊「忠臣蔵」を作成したと言われている。

組踊「忠臣蔵」の出来映えから推して、ヤマトとウチナー(沖縄)の文化に造詣が深く、知に秀で感性豊かな人物であったことは確かである。

忠臣蔵は、自作の組踊だったので、旧藩時代から会所踊りとして上演されたという。明治23年(1890年)には、百姓踊りとして東江上で初演され、その後、現在の村踊りへと継承されている。

伊江島で今でも謡われ踊られているヤマトことばの民謡と舞踊は御殿・殿内務めのヤマト戻りの先人たちの功績である。本村の芸能文化に大きな功績を遺した上地太郎は、平成5年8月に上地太郎顕彰碑を建立し、平成14年3月14日に「上地太郎生誕の地」として村指定史跡に指定された。

上地太郎生誕の地 

村指定史跡「上地太郎生誕の地」

 上地太郎顕彰碑 

城山の麓に建立されている上地太郎顕彰碑

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教育委員会
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