富里節(くさとぅぶし)

公開日 2014年12月16日

富里節
 

平成7年4月24日除幕

わがくさと島や 水欲しゃやねらぬ
池小堀小堀 よこちあゆん

歌意
富里(方言ではツァートゥと言う)は伊江島古代集落の発祥の地と考えられている。このくさとぅ節で歌われているクサトゥはむら内から移住した者たちが村造りに成功したことを誇りにして謡ったもので16世紀頃の作であろうと推定される。

くさとぅ節 (本調子) (伝承地:全区)

一 わがくさと島や 水ふしゃやねらん

 池小堀小堀 ゆくちあえん

二 わがくさと島や すぃぶるない所

 赤豆のうばい すぃぶるお汁

三 くさと行ぢ遊で 一夜明かち見れば

 やうらうす風の 身冷じゅるさぬ

四 仲村柄畠 うぶす数あすが

 くさと屋の後に 一切あらな

五 かにくらと親竹 真謝に蔵建てて

 くくんなと なぬい 富盛 伊盛

大意

1 わがくさと島は水を欲しがることはない。なぜなら、いくつもの池小堀をほって水を蓄えてあるから。

2 わがくさと島は夕顔のたくさん採れるところだ。赤豆のご飯に夕顔の御汁を添えることにしよう。

3 くさとむらへ行き一夜明かしてみたが、やうらから吹きつける風が冷たく身にしみたものだ。

4 仲村柄の畑が数多くあるけれども、くさと屋の後ろの方に一区切りの畑があったらよいのに。

5 かねくら、親竹、真謝に蔵たてて、くくんな、なぬい、冨盛、伊盛…(にも蔵をたてよう)。

語意

(1)ツァートゥ・くさと・富里=地名。 ふしゃ=欲しい。ゆくち=ゆふち。よこして。余口。 あえん=そうしてある。 (2)すぃぶる=夕顔。赤豆=あづき。うばい=御飯。御供え物。 (3)やうら=地名。(別解・やうら〈ようら〉=腰)。 (4)うぶす=一画、一区切り。 一切=一切れの畑。 (5)かねくら・ 親竹・真謝・くくんな・なぬい・富盛・伊盛=地名。 真謝にくら建てて→まんじゃ(神馬)鞍たてて と歌う人もいる。

解説

伊是名牛助は一句を「富里てる島や」と記している。しかし一般には「わが富里島や」とある。新しい村であるが水に不自由はないと唄っている。番所では十七世紀後半富里原に新集落を造り移住をさせたようである。富里拝所があり、大折目行事に民家がないと祭りに困ることと、農地中心に新集落を次々に造るべくその手始めが富里であったようである。前スカンニャには既に小集落ができて折目の世話などをしていた。

それが1750作製の島図には集落名が消えている。村内に移ったものと思われる。1700年から砂糖上納が厳しくなったのでハイヤ組を造るために村内に移ったものだろ。〔伊江村史550~1頁〕

見直し

ななえ→なぬい

類歌

  • わが富里島や水ほしややないらぬ池小堀このでよこちおきやいん〔大成4770・琉全1359富里節〕  伊江島
  • 富里から下りて夜深くに来ればよはらおす風の身冷るさの〔大成3810・琉全1356富里節〕 伊江島
  • 富里屋の後に田畠のあとて原の行き戻り見ぼしやばかり〔大成3811・琉全289仲村渠節〕  伊江島
  • 仲村渠畠おろし風畠富里屋の後に一切あらな〔大成3135・琉全284仲村渠節〕            伊江島
  • 袖からが入ゆら裾からが入ゆらよはらおす風の身ひじゆるさの〔大成2386〕
  • 袖からが入ゆら裾からが入ゆらよはらおす風や定めぐれしや〔大成2387・琉全893〕

コラム <ツァートゥ・クサト・フサト考>

伊江島に「大水間切」なる古い部落がある。その部落の祭礼を宰領したノロを「大水ノロ」と称し現在までも続いている。大水間切よりもっと古い地名を「ツァート」と言い、「フサト」と転訛している。歌などに詠まれるときは「フサト」を用い、多くの島人は今でも「ツァート」と呼んでいる。(『村史上巻』「以下同じ」651~2頁)

大水間切より古い部落ツァートの近くにワジイ、マンパナ(マーヌパナ)、マーヌハンジ、ハニカ、ツァッシなどの拝所がある。(166頁)

豆俵折目という祭事があるが、この祭事は富里ニヤーで行われ、大水根神が中心になって、大水ノロ、大水掟、

大水世盛、大水根神が亭主神として参加する。氏子として富里引といわれる山城一統も参加する。(171頁)

北山支配以前(注14世紀以前)島には12地名の部落があって、地名の順序は門口から順次四方に並べているようである。大水地は最西端の部落である。14世紀初頭北山支配に入る。今帰仁ノロ殿内に根神のうち何人かを間切代表として集め祭祀のことを伝達せしめた。これを掟神(ウチガミ)と称し根神の上位に置いた。(238~9頁)。

※この頃、ツァートゥ住民は拝所を遺し村内に移っていたことが大水地の移住で分かる。

後世のフサト住民は、村内から新しい村建てのために移住したものであろう。16世紀と推定される。民謡のフサト節と琉歌の起源とも相前後していることがわかる。(172頁)

※15世紀後半から16世紀前半が、8・8・8・6の琉歌の起源とされる。(池宮正治著『琉球文学論』142頁)

  • わがくさと島や水ふしゃやねやん/池小堀小堀ゆくちあえん
  • わがくさと島やすぃぶるない所/赤豆のうばいすぃぶるお汁(現行『伊江島民謡舞踊曲工工四』より)

※歌うときは、わがクサト島や…と歌う。日常生活=ツァートゥと、歌謡=クサトの二つの名称を併用する。

富里伝説 昔三人の仲のよい友がいて今の富里庭を共同の庭として暮らしていた。三軒のうち二軒は純百姓で一軒は富里文子を出し馬で番所に通勤していた。(中略)百姓していた二軒が富里一配の始祖と伝えられる。

一つは富里山當筑登之(ツァートヤマアタイチクドン)、一つは富里鍋筑(ツァートナビチク)というた。山當の流れは山城一統と称え、本家は早く衰退したが門中は栄えている。西江上に多く住んでいる。(172頁)

※屋号などの名は、通常「富里(ツァート)」と呼ばれていたことが分かる。(伊是名牛助著『伊江島考察史』526頁)

1713年『琉球国由来記』が首里王府によって編集された。それは各地の番所に資料を提出させて編集したものだが、伊江島の拝所の名称も軒並に変更されている。グスィクお嶽→オシアゲ森・伊江セイ森、ハニカ→カネクラ、ツァッシ→ナヨクラ、ワジイ→ワキリ、ツァート→富里、ニャーティヤガマ→宮寺ノ御嶽などのように。

ですから『琉球国由来記』に見られる拝所名は、古代の島の古語ではなく、古語の翻訳とか類似のお嶽の名称の転用であるとか、神名にいたっては若ツカサ、スデツカサなど王府の役人の苦心の跡が見られる。(168頁)

※日常生活や歌を唄ったり学術や行政などによって、ツァートゥ・クサト・フサト、とジャンルごとに使い分けている。

※類歌の富里(節)と富里節の歌碑は、歌謡・文学碑として使用されている。なお、富里節の碑の建立は歌碑建立事業の一環として設置されたもので、「ツァートゥ拝所」の移動を意図したものではない。

「多くの島人は、今でも『ツァート』と呼んでいる」し、現在、山城一統も「ツァートゥ拝所」として崇めている。

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