公開日 2014年12月16日
平成8年6月19日除幕
阿良の浜砂や 持てばちじられて
たんで西泊 持たちたぼり
歌意
阿良の浜砂は持ち運ぶことが禁じられているが、どうか西泊の番人さん持たして下さいとの意である。
砂持節 (本調子)(伝承地:全区)
一 阿良の浜砂やヨ 持てば禁止られて
ゼイサ ゼイサ ゼイサー
たんで西泊ハイヨ 持たちたぼり
ゼイサ ゼイサ ゼイサー
二 原やぱんた原ヨ 道やくびり道(以下 囃子は一番と同じ)
思ゆらば里前ハイヨ とうめていもり
三 原出て見ればヨ うく豆のかばしゃ
島のみやらびのハイヨ 匂のしゅうらしゃ
四 真謝原の芋やヨ 一本から三笊
赤嶺の小堀ハイヨ 洗い所
西村では、次の歌詞でも歌われている
一 大口の砂やヨ 持てば禁止られて
ゼイサ ゼイサ ゼイサー
たんで西泊ハイヨ 持たちたぼり
ゼイサ ゼイサ ゼイサー
二 あにさぎら降りてヨ ながらいずん浜 (以下 囃子は一番と同じ)
つきくちや小浜ハイヨ 登いいしゃら
三 原やはにか原ヨ 浜やいずん浜
思ゆらば里前ハイヨ とめていもり
四 原出て見ればヨ うく豆のかばしや
島のみやらびのハイヨ 匂のしゅうらしゃ
五 真謝原の芋やヨ 一本から三笊
赤嶺の小堀ハイヨ 洗い所
六 今年世やゆがふ うりずぃむんできて
たげに肝あわち まづぃんしゃびら
子ども会による砂持節の踊り
婦人会による砂持節の踊り
大意
1 阿良の浜砂は持だしを禁止されているので、どうか西泊の番人よ砂を採ることを許してください。
2 原ははんた畑で、道は細く狭い坂道であるが、わたしを愛しているなら愛しい貴方よ探していらっしゃい。
3 畑に出てみたらうく豆の香りがよいように、島の娘たちの香りもなんとも言えない高貴な感じがする。
4 真謝原のいもは一本の茎から三つの笊いっぱいになる。赤嶺の池はその芋を洗うところである。
(西村の1番~5番までは省略。下記は6番の大意である)
6 今年は世果報年で、うりずぃむんの節もよくできて、御互いに気持ちを一つにして実りの真積みをしたいものだ。
語意
(1)西泊=西泊の番人。 (2)ぱんた原=原名。(はんた原=高いがけの上にある畑。) くびり道《くびれみち》=細く狭い道。坂になった小道。〈古〉。 (3)うく豆=藤豆。 かばしゃ〔はばしゃ〕=香り。しゅうらしゃ=高貴で美し。 〈西村〉(2)あにさぎ=川平の地名。 ながら〔なーら〕=川平の地名。小浜=川平の海浜の名称。 (3)はにか原〔金蔵〕=西江上の地名。 いずん浜=川平の海浜の名称。西崎漁港のあたり。 (5)真謝原・赤嶺=地名。 (6)うりづぃむん《うりずん》=季節を表す用語。旧暦の四月夏に入らない前の季節。 まづぃん=稲のまま積み重ねたもの。
解説
<砂持節の由来> 昔から砂を運んで副肥料にしていたが阿良の浜だけは、砂持が禁止されたのである。阿良の浜には、西泊東泊と云う二人の浜番が宅を構へて番をしている。其の泊に嘆願の意思を詠んだ歌詞である。此の阿良の砂持が何故に禁止されたかと云うには因縁がある。阿良には上納倉が建てられて積出しの津口であった。四十組に編成して十四五挺積の小型舟造らせた。最初は阿良の砂浜に揚舟アゲブネして 泊の番人は折々見廻って海水を注ぎ干割を防ぐと云う制度になった。後に川平舟は具志浜に、西江舟は大口に揚舟するようになり各泊一人が置かれてあったこともあるが、最初は阿良だけの計画であったのである。かるが故に阿良の浜砂が運びとらるると岩層浜になって揚げ下しに舟底が傷むので阿良だけは禁止せねばならぬ事情が右本歌を生んだ訳である。〔『伊江島考察史』570頁〕
見直す
匂のかばしや→しゅうらーしゃ。 甘藷→芋。 西とまい→西泊。 下りて→降りて。 上い→登い。
うむ→芋。 ちゅむと→一本。 三ばき→三笊
※かつては「匂のしゅうらーしゃ」と歌われていたので今回の検討で元に戻す。
類歌
- あらのこま砂や持てば禁止られいたんでいりどまり持たちたぼうれ 〔大成382・琉全882砂持節〕
- 真謝原の芋や一本から三ばけ赤嶺の小堀洗い所 〔大成3957・琉全2444名所の歌〕
- 原やはんた原道やこびれ道思ゆらば里前とまいていまうれ (大成3701・琉全2112相聞歌)
- ことし毛作りやあんきよらさよかて倉に積みあまち真積みしやべら〔大成1800・琉全557稲真積節)
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